OPAS社長 アベトシヤスのブログ

オパスを始めるきっかけや個人的体験談

~はじめに~

私がアメリカのワシントン州シアトルで個人輸入のオパスを始めたのは1990年。もうかれこれ30年以上も前のことです。これからブログで、私の過去の体験談や、オパスを始めるきっかけとなった話などを書いてみたいと思います。

 「そんなものには興味が沸かない」という方もいるかもしれませんが、面白い話も内容に入れていくので是非読んでみて下さい。

また、「個人輸入をして収入を得たい!」という方のためには、ちょっとトクになる内容も入れたいと思います。オパスの個人輸入者様へのサポート内容は個人輸入・転送サービスをご確認ください。

30年以上も個人輸入に関わってきたので、書く内容はいろいろとあるのですが、その中の何をどのように書けばみなさんに続けて読んでもらえるのかは漠然としています。

 しかし、みなさんからの質問、感想、意見などが寄せられるようになれば、それらがはっきりとしたイメージとなり、みなさんとの対話がこのブログで可能になると思いますので、ご感想、ご意見など是非お願いいたします。

 

~オパスを始めるきっかけ~

私は四国の愛媛県で生まれ、大阪で育ちました。高校を卒業後の2、3週間後に船でアメリカに渡りました。その後、カナダ、スイス、ドイツへと移り住みました。ですので、今まで住んだことのある国は、日本を入れると5カ国、そして行ったことのある国はもっと多いことになります。

オパスを始めたころには他に転送サービスをしている会社はなく、他の人からオパスとはいったい何をする会社なのか、とよく聞かれました。

聞かれるたびに説明をするのですが、それでも多くの人はピンと来なかったと思います。というのも、その人達はアメリカに住むアメリカ人で、アメリカ国外からショッピングをするといった経験がまったく無いからです。

オパスのサービスがどのように便利か、ということが実感できなかったからでしょう。また、私の説明が下手だったこともその理由であったかもしれません。

当時はオンライン・ショッピングという便利なものはなく、すべてカタログ・ショッピングでした。今から思うと考えられないような話ですが、発注する際には、郵便局から出す手紙か、英語が出来る人は電話を利用していました。

また、ファックスが使える店にはファックスで注文を行っていましたが、アメリカでのファックス普及率はとても低かったです。

しかし、ファックスの便利さは直ぐに認められ、1、2年であっという間にほとんどのアメリカ店舗で利用できるようになりました。

私がファックス機を始めて見たとき、その素晴らしさに感心したことを思い出します。

実は、がオパスを始めるとした最初のきっかけは、アメリカにあるカタログ通販会社の多くが日本に商品発送をしないと知ったこと。また、このファックスの便利さを知ったことにあります。

その後、コンピュータが普及し、アマゾン・ドットコムやグーグルといった会社が出てきました。

ショッピングの方法もカタログ・ショッピングからオンライン・ショッピングに変わっていきました。これらの会社が出てきたころには、今のようになるとは私には想像もできませんでした。

ファックスの便利さは一目同然でしたが、コンピュータの普及と反映の仕方は余りに大きく、すぐには理解できなかったのです。また、ファックスは電話とコピー機を合わせたような仕様ですが、コンピュータは全く別物。

今後、どのようにショッピングの方法が変わっていくのでしょうか?興味深いところです。

OPAS CEO Toshiya Abe
CEO 阿部利保(アベトシヤス)

 

エディンバラでの思い出

アメリカからヨーロッパに最初に行ったのは、私が未だ19歳の時でした。渡米した際と同様、この時も船でニューヨークからイギリスのサウサンプトンに行きました。そこから汽車でロンドンに行き、2、3日ユースホステルに泊まりました。

そこで読んだ本か雑誌には、「世界で一番きれいな町はスコットランドにあるエディンバラというところである」、という記事がありました。

他にこれといった予定もなくロンドンから近かったこともあり、特別な目的もなくエディンバラに行くことにしました。

夕方に乗った汽車がエディンバラ駅に到着しました。そして駅構内を荷物を持って歩いていると、変な格好をした数人の子供たちが私について来て、何かをねだって来るのでした。

そのような子供たちのグループは、他にもいくつも見かけました。また、駅の外に出ても同じような子供たちがそこかしこで物乞いをしていました。私はそれを見た時、エディンバラという町は世界で一番きれいな町かもしれないが、非常に貧しい町であると思いました。

スコットランドのエディンバラ
スコットランドのエディンバラ

エディンバラで2泊した後にロンドンに戻りましたが、ロンドンではそのような物乞いをする子供たちは見かけませんでした。

その後暫くの間、私の中には「エディンバラという町は貧しい」という印象が強く残り、またこの町に行く機会があれば、必ず子供たちに物をねだられるだろうと記憶に焼き付いていました。

7、8年ほど経ったある日、私が友人にこの話をしていると、彼は私にこの体験はいつ頃の話かと聞いてきました。

それまでも同じ話を他の人に何度もしていたのですが、いつ頃の話かと聞かれたのは初めてでした。昼間は寒いと感じなかったのですが、夜になると寒くて眠れず、セーターやジャケットをブランケットの上にかぶせて寝たことを思い出し、10月か11月ごろの話と答えました。

その友人は「何だ、それはハロウィーンだ」と言いました。そうです、ハロウィーンのイベントの「トリックオアトリート(お菓子をくれないといたずらするぞ、というイベント)」だったのです。

私が日本に住んでいた頃はハロウィーンというのを聞いたことが無く、日本国外に住むようになってからも暫くの間はそのようなイベントがある事を知りませんでした。

また、ハロウィーンを知ってからも友人に言われるまでは、エディンバラでの体験とハロウィーンのことが頭の中で結び付きませんでした。

今までに様々なや町や都市に行き、またその場所に住んだりもしましたが、エディンバラは私の中で最も思い出深い町の1つです。私がヨーロッパでの体験を誰かに話すときには、必ずこの話をします。

エディンバラではこの貧しい?!子供たちの事だけでなく、ちょっとした小説の中に出てくるような体験もあるのですが、長くなるので別の機会にお話します。

 

スイスで出会った美しい女性

スイスのジュネーブ
スイスのジュネーブ

スイスのジュネーブであったことですが、そのころ私は自分で針金でジュエリーを作り道端でそれを売っていました。私が21か22歳ぐらいの頃だったと思います。

ある夕方、ロレックスやオメガの時計などを売っている高級店が並ぶ場所で、それらの店が閉まりかける時間に出かけて行きました。私のバッグから、大きな机にかけるテーブルクロスのサイズで、黒のベルベットの布を取り出して歩道に敷きました。

その布の上に、私がデザインした首飾りなどのアクセサリーを並べてお客が来るのを座ったまま待っていました。しばらくすると、幼稚園に行く程の年の女の子が、お母さんとお婆さんと思われる人との3人でこちらに近づいて来ました。

その子は、日本人とは少し違うような可愛らしい顔立ちをし、またお母さんも日本人離れをした綺麗な人でした。しかし、お婆さんの方はすぐ日本人だと分かるような、やさしい顔立ちをしていました。

少々違う雰囲気の3人に対し、「この人たちはいったい何者だろう?」と疑問に思っていると、お母さんが子供に「どれが欲しい?」、「これはどう?」など日本語で話し出しました。そして2、3個の首飾りを買ってくれました。

彼女は私に「日本からですか?」などの簡単な質問をいくつかした後、最後に「頑張ってくださいね。」と言って、その場から3人で去って行きました。

その直後に、私より少し年上らしい感じの日本人女性が1人走ってきて「あんた、あの人誰だか知っている?あの有名なデヴィ夫人よ」と私に言うと、デヴィ夫人達の後を追っていたのか、直ぐどこかに走って消えてしまいました。

もし、いつかデヴィ夫人に会うような機会があれば、昔ジュネーブでヒッピーのような日本人の若者から、道端で首飾りを買ったことを覚えているか聞いてみたいものです。

 

スイスのイヴェルドンでの仕事

スイスのイヴェルドン
スイスのイヴェルドン

エディンバラを訪れた直後、パリで数日過ごした私は、宿泊していたユースホステルで出会った日本人から、スイスの農家で食事と寝床と給金付きで雇ってもらったという話を聞きました。

スイスに関しては、時計やチョコレート、美しい風景という漠然としたイメージしか抱いていませんでしたが、美味しい賄いと羽根布団の寝床に加えて、給金付きという仕事の話にとても惹かれたので、スイスに向かうことに決めました。

特にスイスのどこに行くという目的はなく、実際に現地に入ってからもあちこちの駅で下車して町の様子を見ていました。その際、こぢんまりとしたイヴェルドン(Yverdon-les-Bains)という町の様子が気に入ったので、ここで仕事を探すことにしました。

イヴェルドンにはディスコがあり、たくさんの人が音楽に合わせて踊って賑わっていました。だから、働くには良く楽しそうな場所だと思い、年配のマネージャーらしき男性に「私は仕事を探している」と下手な英語で伝えました。

その人は何を思ったのか、私を車に乗せて町はずれにあるホテルに連れて行きました。そこで少し大柄な年配の女性と話をしたあと、私に挨拶をして去っていきました。

会話は全てフランス語だったので、私は何を話していたのかさっぱりわかりませんでしたが、雰囲気で私がホテルで働かせてもらえるよう頼んでくれたのだと理解しました。

年配の女性は、後に残された私をランドリールームに連れて行き、タオルとシーツを手渡した後、ホテルや私が寝泊りする部屋、トイレの場所などを案内してくれました。そして、最後に私の部屋の鍵を渡してくれました。

翌日から私は、そのホテルのレストランで釜やフライパンを洗ったり、ジャガイモの皮を剥いたりというキッチンでの仕事や掃除をすることになりました。

パリを朝出発し、その日のうちに泊まる場所のみでなく仕事も決まった事に、満足と共にほっとして、その晩は羽根布団の中で満足感に浸りながらぐっすりと眠りました。

この町でいつまで働き、この町で何をしたいのか?という予定は何もなく、ただ休みの日がきたら、昼間下車した町で見つけた、山の上にあるレストランで食事をしようとだけ、その時は考えていました。

 

イヴェルドンの町にて

スイスのイヴェルドンの街中
スイスのイヴェルドンの街中

さて、スイスのイバドンで働くようになってから、ある休日に町の中を歩いていると、町の提示版に「柔道スクール」と書かれた貼紙がありました。

そこにあった住所に歩いて行くと、柔道着を着た人が20人くらい練習をしていました。

暫く見学をしていると、インストラクターらしき男性が私に英語で「あなたも柔道をするのか」と聞いてきました。「私は柔道はしないが空手ならする」と答えると、「私たちに空手を教えてくれないか」と聞いてきました。私の答えは「YES」でした。

私は、日本に住んでいた時に高校時代に空手を習っており、また日本を出て初めて住んだアメリカのシアトルでも少し空手を教えた経験がありました。

シアトルでは日本語と片言の英語でしたが、「まぁ、フランス語でも何とかなるだろう」と勝手に思いました。今から思い出すと不思議ですが、やはり何とか教える事が出来ました。

それから何週間か経ってから、新聞記者が私が教えている空手道場に取材に来ました。その後、私が空手を教えていることが、地元の新聞に写真付きで掲載されました。それから暫くの間は、少し有名人にでもなったような気がしました。

またある日、同じ町の提示版の近くを通りかかると、今度は「無料のEnglish Lessons」と書かれた貼紙がありました。無料でEnglish Lessonsが受けられるとは、これはチャンスだと思いその場所に行ってみることにしました。

私以外にも私より3、4歳上の男性と私と同い年ほどの女性が生徒として来ていました。先生はアメリカから来た20代前半と後半の二人がいました。彼らはモルモン教の宣教師としてその町に来ていたのですが、英語も無料で教えていました。

そして、私たち生徒をピクニックに誘ったり、教会に誘ったりもしました。男性の生徒はそれらに全く興味が無かったのですが、後に私が教えていた空手道場に来るようになりました。

女性の生徒は、よくその教会へのイベントへ参加していたようです。私も教会がどのようなものか少し興味があったので、何度か行ってみました。しかし、全てフランス語だったので、何をいっているのか内容がさっぱり分かりませんでした。みんなが歌を歌うときにはハミングで歌っているふりをしていました。

ある日、町の中を歩いていると、珍しいことに日本の映画が放映されていることを知りました。早速、映画館に入って映画を見ました。

最初のシーンでは、数人の男性がキャバレーのような場所でお酒を飲んでいて、その傍に女性が座っていました。そして、その人たちが座っているテーブルにホステスが追加の飲み物を持ってきました。

映画に出てくる、よくあるシーンなのですが、どこかがおかしいのです。どういうわけか、ほぼ全員が左手でお酒を注いだり飲んだり、タバコを吹かしたりしているのです。

そして次のシーンは、10人くらいのジャズバンドが演奏をしている場面でした。すぐには気づきませんでしたが、それもどこかがおかしいのです。なぜかギタリストが全員左利きのようでした。

さらに、ピアニストが弾いているピアノも普通とは異なる形でした。通常、ピアノの鍵盤は、音が低いほど左側に、高いほど右側に並んでいますが、そのピアノはなぜか反対になっていました。

「ひょっとすると、そのキャバレーは左利き専門の店なのではないか?」とも考え、「ピアノまで左利き用に作るとはなんと込み入ったことをするのだろ」と感心しながら映画を見ていました。

そしてそのシーンが終わり、次のシーンに移ったのですが、今度はその場面に日本語が映し出されました。それを見てやっと謎が解けました。

日本語が全て左右反対になっていたのです。つまり、誰かが間違ってフィルムを裏表逆にリールに巻いていたのです。そして、私以外は、ほぼ誰も気づくことなく、その映画を見ていたのでした。

映画を見ていた人の中には、きっと「日本人はなんと左利きが多いのだろう」と思っていた人がいたかもしれません。

 

OPAS(Overseas Personal Address Service、オパス)は、日本などアメリカ国外に住む皆様へアメリカの住所を提供することで、アメリカ国外に商品を発送をしない店舗からの商品購入を可能にしました。

1990年にこのサービスコンセプトを業界で初めて日本の皆様に紹介して以来、2万人以上の方々にご利用いただいております。

2009年、オパスが開発したオンラインアイテム管理システムの導入により、お客様により便利で確かなサービスを提供しています。

商品転送、個人輸入代行サービスの先駆けとして、30年以上の歴史を誇るオパスをご利用されているお客様からは、経験豊富なスタッフ、サービスへの信頼も厚く、心から満足していただいております。